(私の視点)造語と言語感覚 「ブラック」使い方再考を 尾鍋智子:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/DA3S14081064.html
最近のマスコミの言語感覚に首をかしげることが多いのは、私だけだろうか。
最も不快な表現は「ブラック企業」のブラックだ。
なぜ不快なのか。
「黒は悪」という短絡的稚拙さへの恥ずかしさや、「劣悪」「闇」で代替可能という思い、「ブラック企業」が和製英語の最新語としてリストに加わりそうなことへの憂鬱(ゆううつ)もある。
だが、カタカナのブラックと英語のBlackが持つ意味の違いは、さらに重要な問題をはらんでいる。
Black is beautiful.「ブラックは美しい」は、1960年代に米国の公民権運動で使われた代表的標語だった。
ブラックという色が悪いという偏見を、黒人自らがまず打ち砕き、人種差別と闘おうとした力強い言葉である。
その後も人種差別との格闘は続いた。
例えばポール・マッカートニーらは、80年代になってもEbony and Ivoryで、黒人と白人を左右にならぶピアノの黒鍵と白鍵にたとえ、差別反対、平等と融和を訴えねばならなかった。
このBlackという一語に込められた歴史や思いと、今日本に流布する稚拙なブラックという形容詞は、別世界に属し交わらない。
米国で黒人初のオバマ大統領が現れた21世紀に、日本のマスコミは60年代以前へと逆行しようというのか。
ブラック企業とは労働環境の劣悪さを指すようだが、完全な和製英語である。
公民権運動を経た欧米においては、「ブラックは悪」というニュアンスでの新たな造語は許されないからだ。
日本で「クロ」が否定的な意味で使われだしたのは、容疑者に犯罪事実があるなど、隠語だったようだ。
ブラック企業も、暴力団などとの関係企業を指したらしいが、隠語だったと推測する。
黒は、古来は美しい「黒髪」や、道に通じた「くろうと」という風に、多くは肯定的に使われ、現在も「黒帯」の色である。
引用元: http://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1562791674/